僕というストーリー

「のり」の物書きブログ

母の死について

平成二三年一月、父から母が末期ガンだと告げられる。もっと、早く知っていたら母に手紙を書いて送れたのに。もちろん時間はあったが、母の病状を気にして書けなかった。僕なりの男気がない思いやりである。それでも育ててくれた感謝を曲にした。恥ずかしながら母に「ありがとう」を言ったことは少ない。それでも僕の好きな言葉である『ありがとう』をテーマにした。結局、聴かすことはできなかった。

平成二二年一一月、母にとって僕への最後の面会はつらそうだった。僕の財布へお札を入れてくれた。しかし、ポーチへ財布をしまうときに母は落としてしまうのだ。さすがに心配になり一言、「お母さん、大丈夫?」と言った。ふらつきながら必死に拾う姿が切なくて、とてもつらかった。

母がガンとは思ってもいなかったが悟ったことがある。「今を逃したら、ありがとうが言えない」と。帰り際、ねぎらうように「しんどいのに、ありがとう」と言ってあげた。すると母はうなずいてくれた。これが母と最後に交わしたやり取りとはつらすぎる。

平成二三年三月一二日に母は他界。忘れもしない東日本大震災の翌日だ

父から連絡がなくて葬儀後に告げられる。心で「早く教えてほしかった」とつぶやいた。とにかく悲しさが込み上げて、心底、落ち込んだ。テレビで被災地の悲惨な光景を見つつ、母の死を悼む僕。震災で家族を亡くした人々の悲しみと同じように母を思う。

『命』について必死に模索をして、『家族との一期一会が大切』と気付く。僕は、父、母、兄の四人家族の次男として生まれた。母が他界しても僕の家族は四人家族である。母がいなくても強い絆は壊れることはない。

母の死と震災で家族を亡くした人々。場所は違っても同じ日本での『死』。ただ、違うことは状況である。家族の一人がいないと家族というパズルは不完全だ。運命、命が翻ろうする限り、パズルのピースは欠ける。だからこそ『家族との一期一会が大切』なのだ。 僕は母の息子であったことを死ぬまで誇りたい。

「お母さん、ありがとう」と思いながら生きることを誓う。