僕というストーリー

「のり」の物書きブログ

涙腺という蛇口

泣きたいのに涙が溢れないのは、涙が涸れたからに違いない。映画やドラマで感極まったとしても涙が溢れない、自分には人としての何かが欠落しているものがあると思ってしまう。

涙腺という蛇口がどこかに行ってしまって、涙を流すことができなくなってしまったようだ。涸れたのか、涙腺の蛇口はどこかへ行ってしまったのか、当の本人である僕でさえ、まったく分からない。

幼き頃は泣き虫であった、痛いとき、悲しいとき、親に叱られたときなど、自然と涙が湧き上がるように溢れたものだ。歳が増すごとに泣くことを、恥じらいと思い、必死にこらえて泣くことを封じるようになる。今の僕は素直に泣くのも悪くないと思っているのだ。

大の大人でもたまには、ハンカチを手にして映画やドラマを観ながら泣いても構わない。泣くということは、幼児の専売特許に思えるが、どんな年齢でも換券なく涙を流して泣いて良いのである。しかし、僕が泣きたいのに涙が溢れない問題を究明しなくてはならいな。

涙活でストレスを流す方法―公式涙活本

涙活でストレスを流す方法―公式涙活本