僕というストーリー

「のり」の物書きブログ

「シェリー」を聴くと

何気なくCDラックから尾崎豊のCDを選び音楽を聴くときがあります。「シェリー」を聴くと亡き友との思い出が涙と共に浮かんできます。

友であったK君とは小四からの同級生であり、音楽では、彼から受けた影響は多少ありました。中二の頃に、尾崎豊を好きになり聴き始めたのは彼の影響でした。しかし、高二の頃、私とK君は学校の体育館の舞台で尾崎豊浜田省吾の歌を唄うことになりました。今から話すことは、学生時代の唯一の忘れられない思い出です。

昭和六三年一月のある日、校舎内の掲示板に「卒業生を送る会、有志募集」のポスターが貼られていました。私は卒業生を送る会については、恒例行事なので見知らぬ振りをしていましたが、K君はポスターを見たときに出演するのを決意したらしい。積極的な彼がとても羨ましかったです。

二月に入り、彼は卒業生を送る会の運営委員である生徒会に出演の意志を伝えた後、私は冗談半分に「俺も出たいな」と言いました。そんなことを言ったが、出演したくないのが本音です。もちろん羨ましいという気持ちは若干ありました。結局、冗談を真剣に受け取られ出演することになりました。

二月中旬に担任のN先生に、二人でギター伴奏のお願いをすると快く引き受けてくれました。それから私達とN先生との練習が始まりました。すでに唄う曲は決めていました。私は尾崎豊の「僕が僕であるために」を、K君が尾崎豊の「シェリー」を唄い、浜田省吾の「終わりなき疾走」を二人で唄うのが決まっていたので、焦らず休み時間や昼休みを割いて、三月四日に備えて練習の日々が続きました。

三月に入り当日が徐々に迫っていたので私は緊張していました。しかし、彼は緊張しないようで、私の気持ちは分からないと思っていました。すると彼は「知っているよ」と言って慰めてくれたから緊張の糸がほぐれました。

とうとう三月四日になりましたが、私達は案外、落ち着いて上がることもなく舞台に立ちました。けれど、あまり記憶がなく翌日に先生方に「あの『のり』が唄うなんて」と言われた記憶しかありません。多分、記憶を消すほど夢中になったからだと思います。

学生時代に多勢の前で唄うことを体験をさせてくれた彼は、一年十カ月後に亡くなりました。私はK君と出会えたことを誇りに感じています。このようなことは二度と味わえません。だからこそ思い出を肌身はなさず持ち続けたい様々な、そう、彼に感謝しているからです。