僕というストーリー

「のり」の物書きブログ

エッセイ

笑えないアクセス数1の悲劇

2014/10/07のアクセス数1、悲惨なる結果に苦笑せざるをえない。どういう記事を書けば多くの人に記事を読んでもらえるのか、といじらしく考えてしまう。 基本、僕は無欲な人間だけど、アクセス数1ではモチベーションが続かない。これではブログの楽しさっても…

涙腺という蛇口

泣きたいのに涙が溢れないのは、涙が涸れたからに違いない。映画やドラマで感極まったとしても涙が溢れない、自分には人としての何かが欠落しているものがあると思ってしまう。 涙腺という蛇口がどこかに行ってしまって、涙を流すことができなくなってしまっ…

どんなことも無欲であれ

欲を出せば出すほど滑ってしまう、だかこそ無欲であれ。いつもブログのアクセス数が増えろと思ってしまうのは欲というもの、極端な話、別にアクセス数よりも、記事をコンスタントに書き続けることに意味がある。確かに多くの人に読んでもらえると自ずとアク…

自分を可愛がること

嫌々続けていたことをきっぱりやめる、すると自然と穏やかさが湧いてくるもの。 たとえば仕事。簡単にやめられないにしても、どうしても疲れているなら休むのも良い。僕は好きでやっていたことが苦痛になって、ある日、突然、ある趣味をやめて、好きな読書に…

僕というストーリー

無様であろうが誇れるストーリーを描ける。たとえ他者に笑われようと何の脚色もせずストーリーを語ればいい。自分にしか描けない完全オリジナルなストーリーを他者に語らないと勿体ないと思う。 僕というストーリーは僕が生まれてから始まっている、もちろん…

デュシェンヌ型筋ジストロフィーが翻弄して僕を動けなくしている

僕はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという障害であろうとひとりの人間、もちろん立派な人間でもなく、人の手を借りないと殆どのことができない。 確かに看護が必要だけど、意思があって、会話もできて、パソコンができるから、コミュニケーションも問題なく…

イジメられないための弱い繋がり

人間関係は小難しい、子どもや大人でも同じである。どんな社会にもルールがある、もしかすると、その社会特有の暗黙のルールが存在しているかもしれない。一般常識からすればおかしいこともまかり通ってしまう危ういルールに満ちているはず。 学校や会社は本…

ブログは読まれたら勝ち、つまりレッドオーシャンなんだ

ブログをしているけれど何を書いて良いか分からない、まるで小学生のような人もいるだろう。でも、手本を示せばスラスラと書けてしまう、つまり、多くのブログを読んで書き方などを学ぶ必要がある。 大概の人は、そんなわけにはいかない、むしろ、根性論に頼…

ブログは日記ではない、有益な情報を提供するもの

2014/10/03のアクセス数は悲しいことに0であった。 やはりツイートのような日記では無理があるのかな、と思う。 ブログはアメブロの芸能人のような知名度ない限り日記は読んでもらえない、つまり一般には有益な情報を発信する必要がある。たとえばiPhone6のT…

ボランティアという社会規範の生き方

僕は思う、一体、ボランティアはなぜにあるのか。人や自分のために働いて生き甲斐とするだけなのか。テレビでも言っていたが無償で働くことでも喜びが得られるらしいと。 毎週、土曜日、ボラティアから僕は生きる喜びを得ているのだ。別に時事ネタでの会話で…

僕が死んだとしても誰かに良い報いが訪れるとは考えにくい

お金がすべてというのは本音といえる、しかし、僕には障害年金が支給されているのだ。日本とはいえ負債を抱えていながら、僕のような障害者にも社会保障を、しっかりしてくれる、けれども、もっと生活に困っている人たちがいる。もちろん自分が、それなりに…

デュシェンヌ型筋ジストロフィーとパソコン

デュシェンヌ型筋ジストロフィー症だけど、この型では40代は珍しいともいえる。何も歳が増しているとはいえ、普通に考えたら若い、ただ、障害で不自由だが、悩んではいないし、むしろ、気持ちは前向きだ。今更、こんなことを書いても、だらだらと生きている…

人付き合いと好きになること

最近、恋をすることがなくなった、恋といっても片思いだけど。当然、異性を恋愛対象としてみてしまうが、恋愛抜きで人を好きになる、これは今の世の中から欠落している。世の中には恋愛では語れない、人を好きになることがあるようだ。 好き、嫌い、と言い方…

僕という過去の僕

彼は小四から緑に恵まれた静かな病院で入院生活を送っている。時が経つのは早く入院も、あれこれ30年以上になった。彼には社会経験はないが、病院に隣接する支援学校を出ている。それなりに高等学校の卒業者としての誇れる資格はあるが、専ら趣味をしながら…

憧れのphaさん

今週のお題「憧れの人」 学生時代の頃は以下の感じだったと記憶している…… 小学生の頃は、沢田研二だった。 中学生の頃は、尾崎豊だった。 高校生の頃は、吉川晃司だった。 以降はあまりにも覚えていないので何とも言えない。 ここ最近は、なぜかphaさんのこ…

オイコノミア

オイコノミア - NHK のんきにテレビを観てケラケラ、なんて、テレビ番組が消えつつある。どうも、NHKはケラケラよりも、納得できてしまう。 別に視聴料を払ったって構わない、いえいえ、義務だけど。最近、好きで観ているのはオイコノミアである。たまたま、…

凡庸こそが才能

最近、疲れることが多い。何がどう、疲れるよりも、自分のやっていることが心から満たされないのだ。文章を書いても、いっこうに上達しない、似たり寄ったりの内容に笑えてしまう。 僕は何においても、すぐに上達が頭打ちしてしまうことが多い。どんなことに…

筋ジスや人工呼吸器が僕のすべてではない

家を空けるようにブログを更新しなかった、まさに主の留守状態。2014/09/24、突然、再開したけれど、結局は閑古鳥が鳴く状態である。ネット界隈でも無名だけど、僕はめげずにブログ記事を書いているのだ。 筋ジストロフィーや人工呼吸器は関係なく、生きてい…

自殺ができない人間

死ねない人間がここにいる、つまり、自殺ができない人間である。僕の体で動かせるのは右手親指ぐらいだ。なんか悲しいけれど僕の自殺は体によって抑止されている。 運が良いのか悪いのか、自殺によって現実から逃げられないと思うと、神様は僕のことを良く理…

「シェリー」を聴くと

何気なくCDラックから尾崎豊のCDを選び音楽を聴くときがあります。「シェリー」を聴くと亡き友との思い出が涙と共に浮かんできます。 友であったK君とは小四からの同級生であり、音楽では、彼から受けた影響は多少ありました。中二の頃に、尾崎豊を好き…

母の死について

平成二三年一月、父から母が末期ガンだと告げられる。もっと、早く知っていたら母に手紙を書いて送れたのに。もちろん時間はあったが、母の病状を気にして書けなかった。僕なりの男気がない思いやりである。それでも育ててくれた感謝を曲にした。恥ずかしな…